スタッフ日誌

初情スプリンクル公式SS第1話後編<近江谷宥>

2019.05.17 UpDate

 常に究極の餓えと乾きに苦しみながら地獄の底を徘徊し、たとえ食物や飲み物を得ても、手にした途端に燃え尽きてしまう――
 仏道における餓鬼の責め苦が、まさに今、宗太を絡め取っていた。
 魂を炙られるような苦しみ。魂が疲弊しきってさえも、なお収まることのない食への渇望。
 食わせろ。
 ペコペコだ、と心が叫ぶ。
 ――いっそ死ぬことができたら。
 限界まで追い詰められた宗太はもがき、苦悶の息をもらす。
(……誰、か)
 助けて、と乾いた唇が声なく呟く。


7月2日-神島家リビング-

「ええ、もちろん。さ♪ いい具合ですわ。おあがりなさい? 可愛らしい方」
 魂が凍てつき、ひび割れようとしていたその時、鼻腔に触れた。
 にんにく醤油の甘い誘惑。顔中の毛穴が愛撫されるような熱々でジューシーな気配。
「もぐっ」
 考えるより、感じるより先に、口が迎えに行っていた。
 刹那、脳に炸裂する宇宙的悦楽。
「ムホッ! こ、こここ、この、前歯を弾く鶏もも肉の生意気な弾力。噛み締めるほどにジュワッと噴き出す肉汁。
 口いっぱいに拡がるにんにく醤油とほのかに甘い脂のマリアージュ。
 シェフを、否、俺の運命の天使を呼べい! こんな唐揚げ出されたら結婚するしかねぇだろうが!
 あ、すいませんごはんもありますか」
「はい、どうぞ」
「なんという無敵の相性! まさに無限機関。ハムッ、ハフハフ。俺はこうして米と唐揚げを口に運びながら死んでいってもいい!」
 夢中で掻き込み、喉を動かし、悦楽に身震いする。
「ところで、ええと? 確か結婚の。いきなりですが美人……もぐもぐ? 待てよ、どこかでお会いしたことがあるような」
「結婚、結婚って急ぎすぎですわ。私達、まだ自己紹介もしていませんのよ」
「で、でしたよね? 浮かれてしまって。あ、スープとか漬物とかありませんか。一歩足りない感じでして」
「精々が婚約までですわ。せめて、両家の挨拶などの段階はキチンと踏んでいただけませんと」
 事ここに至ってようやく、宗太は噛み合いすぎている会話への違和感を抱く。
「なんでだろう。前後の記憶が曖昧で。多分、パンの生地とかこねて? 料理……してた、ような」
「たいそう熱心にこね回していらっしゃいましたが」
「……地獄のような魔法だわ」
 羽月が人殺しの目で自分を見ていることにようやく宗太は気付いたが、未だ記憶はモヤの向こう。彼女の呆れの理由には至らない。
「私は杭杉田華世。『暴食』の魔女にして、『KUITAs(クイタス)』グループ未来の総帥。
 加えて申し上げるならそうね。
 羽月さんの唯一のお友達であり、あなたの運命そのものですわ」

「先ほどはごめんなさいね? あなたがあまり情熱的に迫ってくるものだから、ついうっかり魔法を発動させてしまって」
「普通に死にかけてたわよ。ビクンビクンしてたし」
「大げさですわ。失礼? 私の『餓鬼玉(ムサボール)』……これは私どもの一族に代々伝わる魔法なのですが」
「呪いね。魔法ってか陰湿な呪い」
「簡単に言えば私の中で練り上げたイメージを魔力球を介して対象に投影することで、飢餓感を植え付けるというものです。
 死ぬようなものではありませんが、呪いが発動した際に制約した……つまり、私が練り上げたイメージの源になった食べ物を食べる、即ち『答え合わせ』に成功するまで他の何を食べても飢餓感が消えることはありません」
「生き地獄ってことよ。この意味、実際に食らったあなたならわかるわよね?」
「先ほどから少し大げさではないかしら? 羽月さん」
「どこがよ。この人達、サブリミナルっぽくテレビCMにこの類の魔法をぶち込んで、無辜の視聴者を騙してるのよ?
 自社商品の潜在的なジャンキーに変えてるの。
 例の『Kuisugi-zap(クイスギザップ)』だってあこぎなシノギの一部なの。経済ヤクザなのよ」
「うふふ、手厳しいですわね」
「ぺろ、みたいな感じで済むやつじゃないと思うのよね。普通に犯罪で、現代社会への挑戦だと思うの」
 二人の解説なのか掛け合いなのかわからない、息のあったやり取りに区切りがついたタイミングで宗太は首肯する。
「なるほど。ところでお綺麗ですね?」
「まあ、ありがとう」
「これは学術的な見地からなのですが、おっぱいのサイズをお聞きしてもいいですか」
「日によって多少変わりますが、基本は96です」
「ヒューッ!!」
「それ以上、私の前で低俗な会話を繰り広げたら無慈悲な鉄槌が下るわよ? 具体的には宗太の脳天に」
「なんでだ!? まだ下着の色を聞いてないのに」
「薄緑です」
「バカどもなの? わかったわレベルを下げるわね。次に私の断りなく喋ったらパーンってするから」
 両者は黙る。
 冥堂羽月を知り尽くした態度なのは間違いない。
「つまり、そういうことよ」
 どんなだ、と宗太は目で問う。
「で、なんなの? 暇だから来たの?」
 何が? と華世も同上。
「ただでさえも混乱してる状況なのに、のこのこ顔を出したと思ったら宗太におっぱい揉ませたり唐揚げ揚げたり。
 邪魔しに来たの? もしそうならこっちにも考えが――」
「…………………………」
「喋れや! どうしてくれるのよ、関西弁出ちゃったじゃない」
「理不尽すぎるよね? キミ」
「そうよ。お手伝いしにわざわざ来ましたのに」
「結構よ」
「おい、バカ言うな。友人であるお前を助けるために来たとか聖女じゃん。今のところひとつの欠点もないぞ?
 その上、うやむやでどうにか持ち込める可能性がある」
「誰がバカよ、バカ。この人が誰か本当にわかってる、っていうかあなたさっき殺されかけたわよね?」
「こういうところですわ」
「何が?」
 待って、と羽月を手で制した華世がコホンと喉を整える。
「言わずもがなですが『KUITAs(クイタス)』は系列150社を傘下に収める、国内最大の飲食系HD。日本の飲食業界を牛耳っていると言っても過言ではありません」
「へえ」
「私の戦闘力(個人資産)は70億円です」
「あはは。すげー」
「ところで私、胸の付け根にホクロがありますの。恥ずかしいのですけど」
「えええ、マジっすか!? 本当かなぁー。絶対だって言うなら証拠を見せてくださいよ。どっちの胸ですか、ぺろってします? お手伝いしましょうね。安心してください俺の得意分野……」
「『剣の姫(ソードマスター)』」
 斬属性を付与された羽月のリボンが翻り、宗太の前髪をグラムロック風に整える。
「――ところで、付け根って乳の上ですか下ですか? 個人的にはウフフ下がいいなぁ。ぺろっとこう持ち上げるその瞬間がですね、オルゴールの蓋を開けるような? そんな気持ちに重なるんですよ。
 綺麗なものへの期待にわくわくと胸が高鳴る、それはいたいけでどこか敬虔な気持ちなんです」
「完全にサイコパスだわ」
「そう見える? やっべぇ。俺、今日はちょっとおかしいかも」
「今日は?」
 そこで、二人は華世の満足げな頷きに気付く。
「こういうところです」
「だから、何が?」
「まっすぐで、情熱的で、強靭な精神の殿方ですわ。魔族としての才にも疑いの余地はありません」
「よっぽどいいように見ようとしても、そういう評価は出てこないわ。目を覚まして?
 杭杉田さんがあれでも私は困らないけど、宗太が変に調子づくとロクなことにならないの。貞操の危機なのよ」
「ご安心ください。パートナーの責任として、煩悩は全て私が引き受けます」
「うおおおおおい!」
「とっくに私達、そういう関係ですもの。先ほども私の敏感なところを……キャッ、これ以上言えません」
「魔力で頭のネジが飛んだ宗太が、杭杉田さんの乳にむしゃぶりついてるのは見たけど」
「覚えてねえぇ! その折はその、すいません?」
「出会ってすぐに求められるだなんて。私、これでもウブなので少し戸惑ってしまいました。
 あの時のドキドキがまだ胸に残っています」
「ははーん? 吊橋効果ってやつね。度を越してるわ」
「……なあ、もしかしてこれ抱けるんじゃない?」
「そんなこと耳打ちして、私にどんな答えを期待してるのよ」
「客観的に? 信号の色を確かめて欲しかったというか、こ、こここ、混乱していて」
「私がパートナーに求めるのは、一途な想いと才覚だけ。合格ですわ」
 才覚? という顔で宗太は首を傾げるが、構わず華世は彼の両手を取る。
「まだ、知らない同士の私達ですがそれも時が解決してくれますわ。焦らず少しずつ分かりあって参りましょう?
 こちらには全ての準備がございます」
「はあ。準備とは……」


7月3日-聖礼学園教室-

「はじめまして! 杭杉田華世ですわ。
 私という華でこの世を彩るようにという期待を生まれながらにして託された、そんな私です。
 畏れ敬う気持ちはわかりますが、よろしいのよ。視線くらいは送っても。
 それ以上、つまりは 私に名前と顔を覚えて欲しければ列をお作りなさいな。
 よほどの自信と覚悟があるのなら、ね」

 先制攻撃の効果は、まずまずといったところかしら?
 恋も友情も勝つか負けるか。
 そういう意味では、今まさに芽吹こうとしている私の初めての恋も完全に主導権を握ったと言えますわ。
 ほら、彼ったら完全にドキドキしてるもの。私から目を離せなくなってますわ。可愛い。

「あのさ? 前も思ったんだけど、具体的にどういうコネとか権力があれば昨日の今日で学園に潜り込んだりとかできるわけ」
「電話一本でどうとでもなるわよ? 魔族だもの」
「席はあそこがよろしいわ!」
 私は堂々と胸を張り、ひそひそとやっている二人を指し示す。
「あ、あそこというのは、あー……そ、そうか、神島廊下に立ってろ」
「パニクってんすか先生」
「排除してどうするのよ? 彼の隣がいいの」
「それは私にケンカを売ってるってこと? どけっていうの」
「横ずれして神島さんを挟むように私達が座ればよろしいでしょう」
「神島くんがモテモテだよ」
 くりっとした目が印象的な、陸上部顔の女子がのほほんと口火を切る。
「僕は昨日、あれこれ見ちゃったからね。今日も休むかどうかでちょっとだけ悩んだんだよ」
「刑部くんもお知り合いなの?」
「ううん、全く。顔を覚えられたらマズいと思って隠れてたから」
「怖い人なのかな」
 有象無象のざわめきをよそに、私は有言実行で彼の隣に机と椅子を引っ張ってくる。
「まさか、自分を追って美女が学園までやってくるとは。俺の物語が動き出した気分だ」
 いいえ、動き出したのは私の物語。
「言わなかったっけ? 杭杉田さんは思い込みが激しいの。あと、バカなの。IQが6しかないのよ」
「やけに絡みますが、あなたもしかして彼にそういったお気持ちを……」
「はああ? なわけないでしょ、セレブで時代のプリンセスな私が宗太みたいな雑草に」
「なら、お構いなく。私は直感や運命を信じるタイプの女ですの。あの時、心に吹き込んできた清涼な風が恋であったと信じます」
「IQがね?」
「よして。彼女はあるいは俺の運命の人かもしれないから」
 それに、と私は内心で付け加える。
 私の大切なお友達――
 傲慢で偏屈な彼女がこれほどまでに特別な信頼を寄せているのだもの。無為で無価値な人間であるはずがない。
 きっと、まだ知らないたくさんの素敵な一面が剽軽さとスケベの裏に隠れていますのよ。
 私はそれを見つけ出す探検家なの。
「わくわくしますわ。あなたもでしょう? 宗太さん」
 彼は私の声など耳に入っていないような顔で、私の胸元を凝視していたけれど断然許せます。
「笑わないでくださいね。このような形で学園に通うのは初めてですの。
 楽しみね? 私達、きっと仲良しになれますわ」